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塾で働く流浪人ぶろぐ。

現在塾で講師とかをしている流浪人。 自称:戦略的ニート。 あるべき塾の姿や、教育業界とかについて無責任に語っていけたらと思ってまーす。


塾で働く流浪人ぶろぐ。 全記事タイトル一覧
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【ゲームは勉強時間を圧迫する】

 語り尽くされた感のある「ゲーム」vs「勉強」という対立だが、塾に携わるものとして「ゲーム」はやはり大敵である。塾は勉強の病院、家庭は投薬というイメージを持つ私にとって家庭での過ごし方は塾の何倍もの威力を発揮する。

 小学校、中学校の生徒の親御さんから「ゲームばかりして勉強をしない」という話をよく聞く。夜遅くまでゲームをして疲れが蓄積するから学校では寝てる、自慢げにそう話す生徒もいる。衝撃的な告白だと思うが、「俺も俺も!」と生徒が便乗し、ゲーム話に花が咲くところを見ると、「私の方が異常なのか」と思ったりもする。

 今回はそんな悩みを持つ方にこうしてはどうだろうという提案めいたものものせてみた。


【ゲーム脳の限界】

 ゲームと聞いてすぐ浮かぶのは「ゲーム脳」という言葉だ。しかしながらこれはあくまで、「仮説」や「憶測」の域を出ない言葉なのだ。ゲーム脳という言葉をこの世に送り出した本人は未だ検証実験の結果を世に送り出しておらず、たとえて言うなら「地球は丸いと思う」という程度の事を言っているに過ぎないのだ。それを裏付ける証拠もないまま言葉が一人歩きした現実は、多くのメディア、教育関係者の反省すべき点だろう。調べたら、そんなことに根拠がないことは今はすぐ分かってしまう。

 「ゲーム脳になるからゲームは止めなさい」と言われた中学生の気持ちになって、googleの検索欄にゲーム脳と入れて調べてほしい。

ゲーム脳

 ゲーム脳という言葉が、「ゲルマニウム」や「水に話しかけると綺麗な結晶が出来る」といったエセ科学に分類されていることが分かるだろう。キャッチーな言葉には気をつけなければならない。

 しかしながら、ゲームによって勉強時間が削られているという現実は確かに存在する。そのためにゲーム脳を持ち出す気持ちもよくわかる。しかし、ゲーム脳に頼るのはもうよそうと言いたい。科学的な根拠がないこともそうだが、何より論理にすぎないからだ。

【ゲーム脳という論理からの卒業】

 論理というのは系統立っていて、それらしくもあり、やはり魅力的なものには違いないが、そこには感情がない。論理は理解するものであり、「腹に落ちる」という納得はなかなか難しい。大人だって、聖人君子のように振る舞うことは出来ない。なれば理論でなく、感情で接するほかない。論理には正解があるが、感情には正解がない。これが、私も含め多くの人が論理にとらわれてしまう原因だと思う。論理に頼るのは簡単なのだ。

 ゲーム脳という論理を持ってくるとき、相手に対して向き合っていないと感じてしまう。ゲームということで一緒くたにしてしまっているし、端から「ゲームは敵だ」という姿勢を感じ取ってしまう。そこでは「あなたの将来が心配」という言葉は無意味に響く。閉じられた心には、そんな言葉や願いは響かない。言葉は言えばいいというものではないし、伝わればいいというものではない。その先の「実際に行動する」ことがなければ、言ってないことと同じだと思うのだ。

【感情で握手する関係に】

 彼がどんなゲームをしていて、どんなことに喜びを覚えているのか。徹底的に理解することが大事だ。相手を理解して、尊重する。そうすれば、論理や自分の考えを押しつけたりはしないし、出来なくなる。

 ゲームをしている生徒をどこか遠くで見てしまっている。子供と向かい合ってしまっている。敵対関係になってしまっている。こんな経験が多々あった。

 同じ悩みを持っている方に、提案したい。大事なのは彼を先ず理解すること。実際に彼とゲームをしてみてもいいだろう。そこで彼にいろいろ聞いてみると、思いの外、いろいろ考えていることが分かる。「そんなもの役に立たない」という言葉をぐっと飲み込んで、まずは「向かい合う」関係から「同じ方向を見る」関係になってみてはどうだろう。

 それはとても勇気がいることであるし、従来の力関係を崩すものかもしれない。しかし今までのやり方でうまくいかないなら、新しいやり方を捜すしかない。成長している子供に対しては、僕たち塾の人間も成長して行かなければならない。そして親御さんも変わっていく必要があるのではないか。
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 上の図を見て欲しい。またかよ、と思う人もいれば、何これ?と思う人もいると思う。よく自己啓発系で見られるアイスバーグモデルの私なりの解釈版だ。通常は四階層を成しているのだが、今回は成績をどう上げるか、という議論のためにより実践的に3階層にしてみた。

 成績をあげたいと思っている生徒に何かしらのアドバイスをするとき、私はいつもこの図を思い出すことにしている。この図はアイスバーグつまりは氷山を表していて、普段は成果しか見ることができないが、実はそれは海の中にある「習慣と意識」によって支えられているということを表している。





 今回はこのような状態を想定して頂ければいいと思う。ではそれぞれの項目についての説明をしていきたいと思う。



【成果】
 成果は成績である。ちなみに、愛知県での通知表段階評価というのは素点(テストでの点数)と内申点(提出物なども含めた授業に取り組む姿勢)というものの合算で出される。その評価が今回の目に見える「成果」である。

【習慣】
 次に習慣であるが、習慣とは「毎日英単語をやる」とか「あと五分頑張ってみる」だとかそういった家庭での学習習慣や、「積極的に質問する」といったような学習姿勢を含む。ダメな習慣としては、「なんとなくテレビをつけてしまう」などがある。
(本来は姿勢と習慣は分けることが多いが、習慣と姿勢、姿勢と意識は不可分であるため、今回は分けない。)

【意識】
 意識とは勉強に対する考え方のことである。「勉強しなければいけない」だとか「勉強がつまらない」だとかがこの類だ。


 勉強に対する意識が高ければ、眠くたって「今日の分の英単語を終わらせる」という習慣を守ろうと頑張れる。英単語を頑張れば成績は上がる、と言った具合だ。


 さて、三つの階層を説明したところで、成績の改善には三つの階層にどうアプローチするかというお話しをしたいと思う。具体的な例はまた次の機会に述べるとして、成績を上げるために塾ができることは大きく分けて三つの方法がある。

【成果へのアプローチ】
ex.知識を教える。(年号、文法、etc.)

【習慣へのアプローチ】
ex.勉強の仕方を教える。(反復させる。宿題を出す、etc.)

【意識へのアプローチ】
ex.勉強に対するアレルギーを取り除く。


 私は塾を敢えて一流、二流、三流と分けたとき次のように規定したい。

三流の塾は勉強を教えてくれる。二流の塾は勉強の方法を教えてくれる。一流の塾は勉強に対する意識を変えてくれる。

【短期的・長期的な視点】
 短期的に見れば成績はいずれの方法によっても上がる。しかし、長い目で見たとき、成績はどうなるだろう。高い意識により自走が出来るようになった生徒と、嫌々量だけをこなす生徒では成績の安定感が違ってくる。「成績を上げる」や「合格する」といった目標を達成した瞬間、勉強をしなくなったという生徒を見たことはないだろうか。こんな噂を聞いたことはないか。

「A塾は中学入った後伸びない。B塾は伸びる。」

チョット脇道にそれるが、愛知県の中学受験ではよくこんなことが言われていたのを覚えている。

 ある塾は週に1回の授業しかない。しかしある塾は週に5回もある。さて、どちらがAでどちらがBだろう。前者がBで、後者はAである。
 
 前者B塾の生徒は「やりなさい」と言われているわけではないが勉強をする。それは週に1回テストがあるからだ。後者A塾の生徒は「やれ」といわれて量をこなす。

 B塾は全国的な知名度もある有名塾だった。しかし、ドロップアウトする生徒も多かったことは事実として述べなければならない。



【これからの塾】
 学校にこどもを入れて、「はい、おわり」という時代は終わってしまった。進学校といえど、上位層と下位層の差は開いていると思う。実際に成績を見るとますます強く感じられる。親が「成績を上げるため」に塾に通わせる時代は終わり、成績をあげる以上のことを求めて行かなくてはいけなくなった。知名度や評判だけでなく、塾のビジョンや指導方針が問われる時代がやってくる。「どのような方法」も大事だが「どのような考え」で子どもを指導しているのか入塾時に聞くことが塾選びの失敗しないコツになる。そしてこどもにぴったり合えば言うことはない。

 
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「経済101」(青木理音さんのblog)での3月4日エントリー日本経済の現状が衝撃的だ。

 まず、元来「日本人は貯蓄が多い」という意識を改める必要がある。私が就職活動していた2008年4月においては金融機関は声高に

「貯蓄から投資へ。これからは間接金融ではなく、自らの意志で選ぶ直接金融だ。」


と叫んでいた。金融ビックバンが起こり、それに引っ張られ様な形だったと記憶している。しかし、主要国の家計貯蓄率の推移を見ると、その当時常識とされていたはずの日本人の貯蓄は、この時点(2008年)でアメリカに追いつかれている。その後リーマンショックにより、「貯蓄から投資へ」という声はあまり聞かれなくなってしまった。

 スローガンというのは一種の思考停止なのではないか。ワンフレーズで白か黒と迫る二項対立は、分かりやすいという反面、各論を無視する危険性を大いに孕んでいる。逆に言ってしまえば、人々が自明と思っていることに乗っかれば、いくらでも(良きにつけ悪きにつけ)スローガンが出来るし、ものによっては一人歩きをし、盲目的になる手段として使うことができる。


 こういった目で見ていくと、「あったらいいな」というキャッチフレーズは「こんなものもあるのか」というゼロから生み出す能力がないことの裏返しに聞こえてきてしまうし、「通販型保険no.1」という言葉の裏には、「じゃあ全保険の中で通販型保険ってどんなシェアよ!?」という疑問が湧いてくる。冗談だけど。


 少しずれてしまったが、当たり前のことをエビデンスを揃えて判断するというのは大事なんだけど、難しい。時間という制約もあるし。いままで常識と思っていたことは実はもう常識じゃないんだけど、スローガンによってそう思い込まされているのかもしれない。でも常識はあたりまえのことだからそれを疑うのは難しい。


 青木理音さんの記事から日本の将来を予測すると、暗澹たる気持ちになる。生産拠点の海外移動もますます活発になるだろう。投資の対象としても日本の市場価値は下がっていくかもしれない。こういった大きな流れの中で、(サンプル数が少ないが)本社機能は海外移転しないと言っているのは心強い。と同時にホントに移転しなくていいの?という不安も抱く。


 高い法人税のなかで国際競争力は育つのだろうか。twitterを見ていると「法人税は下げるべき」という議論が多く聞こえる。「このままでは企業の海外流失が進む」と。しかし孫正義さんのこの言葉を思い出して欲しい。

ところが、アメリカ人記者のインタビューでは別の理由を話している。

  「ダイアモンド・ハーバード・ビジネス」九二年五月号のアラン・M・ウエーバーのインタビューだ。

  彼は素朴に疑問をぶつけている。

  「バークレー校を卒業した後、アメリカで企業家としてそのままやっていこうとは思わなかったのですか」

  孫は次のように答えている。

  「その点についてはずいぶん考えました。実際多くの点からみて、アメリカに残る方が有利だと考えました。友達の多くも、日本に帰ればすべて一から出直すことになるので、帰るなんて正気の沙汰ではないと言いました。すでにアメリカで会社を作っていましたし、そのまま継続させるほうがずっと楽だと思えました」

  「それなのなぜ日本に帰国する決心をなさったのですか」とウエーバーは続ける。

  「私には自分に自信があったのです。いつか自分は大きな会社を持てる、グローバルなビジネスとして会社を成功させることができる、そんな気がしていました。そういうことが出来るとすれば、本社は日本に置くべきだと思いました。日本では事業を始めることは難しいかもしれないが、いったん軌道に乗れば、日本に本社を置く方が従業員も会社のために働いてくれるだろうから、やりやすいと思ったわけです。日本人はよく働きますし、会社への忠誠心も強く、同じ会社で長く働く傾向がありますから」

  孫は日本に帰った理由を、私には母親と約束したからだと話し、一方でアメリカ人記者には、長期的にみれば日本人は会社のためによく働くからだ、と異なる説明をしている。


 日本で企業活動する経済的メリットは確かに少ないのかもしれない。しかしメンタリティーにおいてはどうだろうか。しかし、これも「常識」なのかもしれない。

・法人税が高いので、海外流失する。
・日本人は忠誠心が強いので会社が長続きする。



なにが新しい常識なのか。


それは自分で決めるしかない。



ただ一点、この大きな流れの中で、なぜいまこの法人税の高さなのだろうか?
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